やればできる

  • 第32話

長男が小学3年に進級したとき、日記への取り組みが始まった。一行でいいから毎日書いてみようというもの。日記はその日の先生の感想が添えられて戻る。そのころ私は毎日のように息子に「準備は大切よ。前の日にしようね」と声をかけてきた。マイペースでじっくり型の息子は宿題に手間取る。入浴、食事、9時には眠くなってダウン。準備をせずに、朝あわててそろえる日が続いた。忘れ物も多くなり、提出書類を朝になって渡されて困った。「言わんとできんね!」日に日に私の小言が増えた。ある日その怒りが頂点に達した。息子がうなだれて、目を赤くするまで言葉をぶつけた。その晩、息子の日記を開いた。力強く大きなマスいっぱいの字で書き付けた詩が目に入った。

本読みをしないと 「いわれんとできんね!」
準備をしないと  「いわれんとできんね!」
これは、お母さんのセリフ
そのときはこわいけど、あとからやさしくなる
でも、「いわれんとできんね!」はほんとじゃない
ウソダ ぼくも、ほんとはいわれんでもできる

何度も何度も読み返した。悲しそうな息子の顔が浮かんで涙が出てきた。翌朝言い過ぎを謝った。気持ちを伝え、話し合いをした。日記にも”分かりました。やれば出来るよね。もう言いませんよ”と書き込んだ。翌日戻った日記には、赤インクの大きなハナマル。最後の二行には波線がひかれ、”先生、この日記大好きです。すごくいいです。”と書かれていた。この日から息子の日記の回数は増えた。本読みも準備も、彼なりのペースで取り組み始めた。私達が彼のペースを見守る心を持ったことで、息子の”やればできる”自信は、日ごとに強まっていくようだった。今でも「言われんと・・・」と言いたくなることがある。そんな時あの日の息子の日記を思い出す。

親子3人の写真

  • 第31話

高校2年の秋、叔父の家に泊まりがけで遊びに行った私は、その家のおばあさんから小声で呼ばれました。振り向くと、手招きをしています。夕暮れでした。薄暗い仏壇の前に立ったまま、横から手を入れて、しきりに何かを探し、やがて、小さな紙の袋が手渡されました。
「なに?」「写真」「えっ?」
「あんたと父ちゃん、母さん、三人の写真」
私の父は職業軍人で、福岡県の糸島の陸軍に所属していました。昭和19年の暮れに、私はそこで生まれました。やがて終戦。父は郷里に引き揚げ、役場に勤務しました。
それから3年後に、私の母は病気でなくなり、1年後、父は今の母と再婚。それから2年もせずに、父は出張中に交通事故でなくなってしまいました。
一体、どういう写真でしょう。よく見ようと、明るい方にかざす私の側に立ったおばあさんは、事の次第を話してくれました。
父は即死でした。遺体が運ばれた後、追って遺品が届きました。おばあさんがいくつものポケットを探っているうちに、きっちり包まれた写真が出てきたらしいのです。写真の下部にボタンの跡がついていて、どうも何年も持ち歩いたものと、おばあさんは察しました。その途端、おばあさんは今の母の気持ちを考えて、素早く懐に隠したそうです。
「死に別れの後には嫁ぐな、というやろ。かわいそうで、とうてい見せれんかった」と、おばあさん。・・・それから11年。
「あんたがもし、ぐれるようなことがあったら、わたしゃ、この写真を見せて、説教する気じゃった。だけど、もう大丈夫やろう。今日、写真を返す。父ちゃんは母ちゃんに呼ばれたんじゃろう。だけど、あんたまで呼ばんやろう。親の供養と思って、倍は生きよ。ああ、これで私も荷を下ろしたわぁ」
写真には、両親にはさまれた生後60日の私が。静かな感動がありました。小学校入学までに二人して亡くなるのなら、生むなよな、という恨みの気持ちが常にあり、将来、自分自身が温かい家庭を築くことなど、夢見たこともなかったからです。
それから30数年。さまざまな試練がありましたが、3人の娘にも恵まれ、ともかく生きています。
いま思うことは二つ。もし自分が、あのおばあさんであったら、その孫が無事に成長するように見守りながら、時期を待てるでしょうか?もう一つは、幼い子供を残して、突然、死んでいかねばならなかった親の心情です。
こんな話を聞いたことがあります。
(亡くなった親は、残した子のために、神様の前に行列を作ります。順番が来ると一つだけ、子供が幸せになるようにお願いが出来ます。そしてまた、列の最後に並びます。)
何か一つ願いがかなう度に、私は今でも、ふっと空を見上げます。「順番が来たんだね。ありがとう」と。

ああ!今日も見える

  • 第30話

南武線A駅午前7時31分発の電車。その前から三両目のドア際に、雨が降っても風が吹いても、張り付くように立つ。座席が空いていても、人を押しのけても、その場所が欲しい。そこからしか見えないのだから・・・・。
二つ駅を過ぎると、いよいよ病院が見える。胸の高鳴りを押さえながら三階の窓を見上げる。その窓に電車を見ている主人の姿があった。
「ああ、今日も生きていてくれた。」今日もベッドから起きられたのだ。『おはよう』と心の中で叫ぶ。
あと何日、こんな時間、こんな朝があるのだろうか。だれにも分からない。
主人がベッドから起きられなくなり、窓から電車を見る主人と会えなくなったら、だれが何と言っても40年近い私の勤めにも終止符を打とう。そして、看病と介護に専念しよう。
胃や肝臓のガンと闘っている68才の主人と、それを見守る69才の私。毎朝、病室の窓に立つ夫を電車の窓から確認する”時間”は、私にとって命を賭けるほどの一瞬なのです。
二人とも青春時代をお国に捧げ、働き続けた50年余。結婚式も出来なかった。
それだけに「80才までは生きようね」と、老後に楽しい夢を描いていたあなた。二人で夢見た老後の楽園でも、私は必ずあなたの後を、ついていきますからね。

おやじの涙

  • 第29話

高校の運動会での出来事を、昨日のことのように思い出す。田舎の高校の運動会はお祭り騒ぎだった。私は当日、1500m競争に出場することになっていた。三周目くらいまで五番目に位置し、様子をうかがっていた。四周目に入ったとたん、スタンドから、入れ歯をガタガタさせながら大声でわめいている男が目に入った。「行け行け、一番になれ」と叫んでいる。おやじだった。あれほど運動会に来るなと言っておいたのに。貌が焼け付くように火照った。恥ずかしさと決まりの悪さで、おやじから少しでも遠ざかるため、私は思いっきりスピードを上げ、何人か抜いていた。
おやじはスタンドの最前列に身を乗り出して、懸命にわめいている。今まで一度も学校になど顔を出さなかったおやじが、なんということか。なりふりかまわず大声を上げて応援しているではないか。第三コーナーでついに先頭をとらえゴールした。おやじが涙を拭いているのがわかった。
昼食の時間になった。スタンドのテントの中で、おやじは一升徳利を持ち、だれかれなく焼酎をつぎ回っていた。「たいがいにして帰ってくれよ。」おやじに頼んだ。「何ば言うかい。おまえが一番とったのはこれが初めてばい。うれしかったい。一番ばい。一番ばい。」と言いながら湯飲みでぐいぐいやっている。
運動会が終わった。スタンドのテントの中に老人が一人で寝ていた。おやじだった。私は友人たちが見守る中、おやじを背負って帰路についた。ものの1キロも歩いた頃、正体なく眠っているおやじが「一番だったぞ!」とつぶやいた。首筋に生暖かいしずくがツーツーとかかった。おやじは夢の中で泣いていた。恥も外聞もなく、衆人環視の中で一升徳利を振り回して応援してくれたおやじが急にいとしくなった。生暖かい首筋の感触が体中に広がり、不覚にも涙ぐんでいた。
運動会シーズンが来るたびに何の取り柄もないおやじの最初で最後の応援、そして私の一生一度の一番を思い出し、胸が熱くなる。

おやじよ、ありがとう

天国の母へ (井上康夫気迫の金メダル)

  • 第28話

母親と一緒に、表彰台の一番高いところに上がった。見てくれよ母さん。胸の金メダルを。亡き母・かず子さんの遺影を胸に抱きながら、揚がる「日の丸」を見つめる井上は、満面に笑みをたたえた。
決勝の相手ギルは、組み手をなかなかとらせてくれない。多少じりじりする時間が過ぎた2分9秒、十分な組み手となった瞬間、右からの内またが一閃。完ぺきな技でギルを豪快に畳に叩きつけた。その瞬間、大きな感動がシドニー展示場ホールを包んだ。叫び、拍手、涙・・・。初めての五輪の重圧は強い精神が吹き飛ばした。
最初から最後まで自分の柔道を貫いた。2、3回戦は開始18秒と16秒。”秒殺”の一本勝ちだった。4回戦、決勝も攻めつづけ、すべて一本勝ちという完勝だった。「とにかく、一本だけを狙っていた。母に最高のプレゼントができました」
一年前までは、天才的な強さの反面、ポカで一本負けするもろさもあった。だが、昨年6月21日、母・かず子さん(享年51歳)をくも膜下出血で亡くした。柔道家の父・明さん(52)に殴られても、家にはいつもやさしく受け止めてくれた母がいた。「勝て」と叱咤してくれた母が好きだった。
葬儀の日、火葬場で「オレも一緒に焼いてくれ」と取り乱した父を、柔道の師でもある父を、大声で初めてお前呼ばわりした。「バカヤロウ、お前がそんなんじゃ、母さんが心配するだろ。みんなつらいんだ」。その日を境に柔道からも甘さが消えた。母の死が井上を変えた。
五輪イヤーとなった今年から、母の指輪で作った形見のペンダントは持たなくなった。世界選手権までは母の霊に助けてもらったが、今度は自分が母に金を捧げる番だったからだ。
母の夢と自分の夢をこのシドニーで果たした。この日、21日は月命日。やっぱりどこかで母は見ていてくれた。

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